Aぇ米の日記

Aぇ! groupを推す人のブログです

深馬の葛藤を探る『染、色』考察

加藤シゲアキくん脚本、Aぇ! gruopの正門良規くん主演の舞台『染、色』の考察をするためだけに、ブログを開設しました。

読みやすさの観点から、断定的な口調になっているところもありますが、解釈は人それぞれに委ねられるべきものです。当然のことながら、このブログはこんなことを考えたよ!の表明でしかありません。全ては「それってあなたの感想ですよね?」で片付けられます。

それでも、長く拙い文章ながら一生懸命書いたものなので、読んでくれたら嬉しいです!!!(なお、この考察は他の方の考察を読まずに友人と議論しながら作ったものです。他の方の考察を読むのが楽しみ〜〜〜)

※舞台内容を多分に含みます。ネタバレ注意。

 

 

 0. 結論

「真未」と「(ポリダクトリーになりすまそうとした)滝川先生」は深馬の深層心理の現れ(特に真未は子どもの頃の無垢な気持ち)であり、『染、色』は彼*1の葛藤を中心に描いた作品である。優秀な美大生とされてきた深馬は、これまでずっと自分の価値の保証や指標であり、義務(責任)でもあった絵の創作活動へのエネルギーと自信を失いつつある。その一方で、自分の可能性も信じていたいし、責任から解放されて、純粋に絵を描きたい、という子どものような無垢な思いを抱いている。

 以上が私の考察のざっくりとしたまとめです。生まれ落ちた環境、周囲の期待、自分の才能……いろいろなことを理解できるようになった若者が自分の将来について考えるとき、何ができるのか、何をしたいのか、何をすべきなのか、そんなことを考えながらもがきながら進んでいく様が描かれているように感じられました。

 

*信頼できない語り手

本筋とはちょっと逸れますが、まず初めに、信頼できない語り手という用語に触れておきたいと思います。『染、色』の考察がこんなに溢れているのも(もちろん作品を取り巻くもの全てが素晴らしいということは前提として)、信頼できない語り手によるものも大きいのではと思っています。

信頼できない語り手、とは読んで字の如く、真実を述べないかもしれず、ミスリードを引き起こすストーリーテラーを指す専門用語です。かっこつけて書いておきながら授業で聞き齧った程度でありまして専門外なので、詳しく知りたい方はひとまずwikipediaを読んでください()

舞台である『染、色』では、観客は第三者目線、俯瞰で物語を観劇します。ところが、最後にポリダクトリーや絵の破壊に関する齟齬が明らかになったことで、我々が見せられていたものが深馬の解釈を通した世界であったことも同時に明らかになるわけです。私は勘の良いガキなので、真未の実在性については、見ながら途中でクエスチョンマークが浮かんでいたわけですが、一重の罠にとどまらず、ポリダクトリーのことまで全て仮想現実だったとは!と舌を巻きました。

文章での語り、レトリック以上に、演技を目の当たりにしている舞台では、それが事実であるという印象を受け手に強く与えます。その性質を利用して観客を欺き、勘付いた観客にはさらなる欺きを用意しておくという構成の面白さ、素晴らしいと感じました。

私は原作を読まずに臨みましたが、原作を読んでいたら尚更驚きが大きかったのではないか、と推察します。

(書いていて不安になってきたのですが、私が見事にミスリードされたのは、勘が良いどころかアホの子だったからではないですよね……?)

 

1. 真未について

実際のセリフや描写に基づいて真未という存在を紐解いていきながら、深馬について述べていく章です。

結論部分で「真未って実は、深馬の深層心理なんですよね」とドヤ顔で述べました。つまりは実在せず、深馬の脳内で息づいていたと考えています。なお、真未=深馬の根拠は、絵の破壊の映像に求めています。

 深馬の願望、なりたくてもなれなかった姿である真未。深馬が奥に隠してしまった部分である真未。たくさんのポイントがありますが、コアメッセージは何かに縛られることなく自由でいい。思うままに絵を描きたい!自由になれば何にだってなれる。だと考えています。

 

自由な真未

  • 自由な存在、「深馬の自由になってあげる」

→スプレーを腕に振りかける常識外れな習慣。勝手に絵を書き足す行為。怒ってスプレーを吹きかける。真未は思うままに振る舞います。そしてそれを羨む深馬に「深馬の自由になってあげる」という真未。深馬自身が自由を求めているのです。実際、真美によれば、スプレーを北見らに吹きかけた行為は、「深馬が頼んだ」んだそう。

  • 「上手くいってるならそのまま突っ走ればいい、客観視なんて丸めて捨ててしまえ」

→ウジウジ自虐している深馬に真未が放った一言。謙遜のフリして自己防衛してる、と。かっこよ〜〜〜。深馬が自虐するのは、彼が優等生として生きてきたからかも?と少し思いました。勝手に期待されて、失望されて(かといって謙遜しないと傲慢だと言われて)‥‥‥。周囲からの失望から自己防衛しようとしているとすれば、客観的な視点=周りからの評価も、本当は捨てたい、彼を縛るものだと言えそうです。

  • 「ちゃんとした不幸と自由がある」

→深馬は、幼い頃に両親を亡くした真未をこのように形容します。だから、自分の気持ちはわからないのだ、とも。深馬自身は恵まれていて、誰かの手によって守られた自由しか与えられなかった。そしてそれが真未のように自由気ままに振る舞うことを妨げているのだ、と深馬は考えています。

  • 「いい人に見える人が、意外と悪いことをしているもんだ」

→真未のセリフ。まずは彼女によくしてくれている大家さんについて、温情に溢れた人のようにも思えるけれど、実は脱税をしていると語られました。(施設上がりの子にはわからないのではと決めつけ、帳簿を出しっぱなしにしているというところも善人らしくはないですよね……。)次に滝川先生。部屋を自由に使わせてくれて、親身に相談に乗ってくれて…学生思いの先生に思えるけれど、そういう人ほど悪いことをしているものだ!と真未は言いました。社会の中で良い行いをしているように見えている人も、見えないところで悪いことをしているはずだ、という主張です。どんなに良い人に見えても、良い人でいる責任から逃れているはずだ、深馬はそうであって欲しいと思っているのです。彼自身も優秀な美大生として絵を描く責任から逃れたいから。

  • 「責任?私たちに一番似合わない言葉だね」

→絵を完成させるという責任を気にする深馬に対する真未のセリフ。私たち、と真未が深馬を一緒くたにする(=深馬は真未と同じになりたい)というところも深いです。

  • 人のせいにしがち

→北見の作品を酷評した真未は、北見とつるんだせいで深馬はうまくいかなくなったのでは?と指摘します。深馬は否定しますが、心のどこかで人のせいにしたい、責任から逃れたいと考えているのが読み取れます。

純粋に絵を楽しむ真未

  • 「絵って習うものなの?」 絵を描くことは「歩くこと」

→ずっと習い事として絵を描いてきた深馬とは対照的に、自然に身に付けた真未。絵を描くことをやめようかと悩む深馬と、歩くように自然に続ける真未。「自由」とも関連しますが、真未にとって絵を描くことは生きる上で自然に行っていくものであり、これは深馬には(欲しくても)手に入れがたかった感覚です。

  • スプレー缶を隠されて号泣する真未

 →表現の手段を失われて我を失う姿であり、思うままに絵を描けないことはそれほど深刻なことだとわかります。真未は、つまり深馬は、絵を描くという表現行為そのものにこの上ない喜びや意味を見出しているのだと考えられます。

 深馬の可能性と真未

  • 「私が深馬の望むことを全部叶えてあげる。そうすれば、深馬は何にだってなれるんだよ!」

→真未が深馬の望みを叶えれば=何にも縛られず自由に表現すれば、深馬には無限の可能性があるという真未。才能の限界を意識する深馬が信じたいたいと切に願うこと、心の叫びです。

番外編

  • 「最後の形は決まってる。もう変えられない。」
  • 最後の形=自分の死体は自分では見られない

→どちらも真未のセリフ。作品の可能性について述べた1つ目のセリフは、深馬の無限の可能性を信じることと矛盾しそうです。そして、深馬は自分ではその最後の形がわからないのだと答えました。

→それに答える形で発せられたのが、作品の最後の形と死体をなぞらえた2つ目のセリフ。人生を作品と捉えることから、さらに無限の可能性を信じることと矛盾しそうです。しかし、「自分では見られない」という言葉がついていることによって、見られないのだから無限の可能性があるということを表していると私は思いました。観測するまで結果はわからない、決まっていないのと同じでどんな可能性も残されている。まさに、シュレディンガーの人生*2

確かに最後は決まっているけど、感じるままに動けば、何にだってなれる。一度染みついたものは取れない、でも、滲むゆくえは、しらないかたち。そんなメッセージが隠されている気がします。

 

 2.(ポリダクトリーになりたい)滝川先生

(ポリダクトリーになりたい)滝川先生とは、物語終盤、ポリダクトリーになりすまそうと暗躍(?)し、深馬に見つかった以降は感情的に思いを吐露する滝川先生のことです。あまりにも名称が長いので、以降「終盤の滝川先生」と形容します。

なぜ深層心理と考えるのか

真未=深馬であることは、劇中の隠し撮りで明かされた、と考えて差し支えないでしょう。終盤の滝川先生についても、まずリアルだと考えると、最後の居酒屋のシーンでの会話と齟齬が生じてしまいます。さらに、服装と二手に分かれたことから、真未と同じように深馬の中の存在だと考えました。

服装

終盤の滝川先生は真未と全く同じ上着を羽織って登場します。闇に紛れて落書きをするのだから黒い格好・フード付きという設定は被っても違和感はありませんが、全く同じ上着を用意しているということには現実味がありません。真未は実在せず、ポリダクトリーとしての真未の格好は深馬だけが知ることだからです。その上着を着ている着ている両者が共に深馬の脳内にだけ存在したと考えれば辻褄が合います。

二手に分かれたこと

ポリダクトリーのなりすましを探そうとする深馬と真未は、二手に分かれることにしました。理由は、二人でいると目立つし効率も悪いから。なるほど納得がいきます。(これまでは二人で堂々と落書きしてたジャン?なりすましは敏感なんですか?)でも少なくとも、終盤の滝川先生が登場したシーンには真未の存在は確認できません。真未が退場して、その上着を着た滝川先生の形で現れる、と考えることに無理はないのではないかと思います。

滝川先生とは

友だちがいなかった原田を気にかけ、学生を自分の部屋に自由に出入りさせ、時に息抜きを許し雑談もできて、将来を考えることを促し、その相談にものる。めちゃくちゃ理想的な先生です。実際、真未のところでも述べたように、「いい人そう」に深馬の目にも映っているのではないかと思います。

  • シナモン

→存在感はあるけど、脇役である。と深馬が滝川先生を例えました。(美術界のすごい人、ロランスあかりさんとは違う)、あくまで脇役なのだと深馬は考えていると読み取れます。「絵を描くのをやめたいと思ったことはないですか?」と先生に相談する場面もあり、先生のことを自分の延長線上にある存在だ、と深馬は捉えているのかもしれません。

  • 「ホンモノになるためなら、何だってする」

→終盤の滝川先生のセリフです。ホンモノになれると自分の可能性を信じ、美大の講師という立場に縛られず行動する姿は、まさに真未に見出せる深馬の深層心理と一致します。

  • 「なぜお前が俺の夢を叶える?」
→これも終盤の滝川先生のセリフ。深馬は、先生にとっての夢でありたい。誰かの目標、何者かでありたい。続く、「なぜ簡単に諦める?」というセリフも、思い通りの表現に挑むことなく投げ出してしまう自分への嫌悪感が滲んでいるように思われます。
  • 「最初から意味なんてないんだよ」
→ポリダクトリーになりすまして、何の意味があるのか?と問うた深馬に対する先生のお返事。何かを成し遂げて他人に認められることには意味なんてない、(意味があるのは絵を描くことだ)という考えがあるような気がしました。
番外編
  • 「全部自分のものにしてしまえば、いつしか嘘が本当になる」

→結局、ポリダクトリーを自分の功績だと思いたかったのは深馬自身だ(事実深馬は自分の作品と思い込んでいる)ということが透けて見えます。このセリフも人生の教訓めいたものを感じさせます。

 

3.深馬

絵を描くことを大きな軸に据え、何かに縛られることなく自由でいい。思うままに絵を描きたい!自由になれば何にだってなれる。という真未と対照的な深馬を見ていきます。

深馬を縛るもの

  • 「たまたま上手くいっただけのに…」

→首席で入学した深馬は「すごいやつ」として見られてしまう。周りからの評価と自己評価とのギャップに苦しめられています。

  • 展覧会の絵について)「どう思った?」「前のとどっちがいい?」

→周囲の評価と自己評価のギャップに苦しめられているとはいえ、やはり良い評価がもらえるか気になる深馬。絵を完成させるのが怖い、というのもここに原因がありそうです。

  • 「絵を描くとみんなが喜んだんだ、特に親。」

→深馬は、 絵の才能が地元の教室では手に負えないほどだと賞賛され、親に美大入学までみっちりサポートしてもらいました。実家を継ぐと言えば泣き出されてしまうほど、親の期待も大きいものです。上手く描ければ褒めてもらえる・喜んでもらえる絵は、深馬にとってこれまで、自分の価値を決めるものでした。さらに、親の協力と期待の手前必ず絵の道に進まなければならないというプレッシャーも深馬にのしかかっています。

  • 「面白ければいいんだよ、何でも」

→展覧会の作品作りに関しての深馬のセリフ。モーション付きで語られ、北見や原田が真似するなど強く印象づけられます。自由な真未っぽさがありますが、机を叩くモーションがあることで自由に表現しようと深馬自身に言い聞かせていると読み取ることもできるのではと思いました。(少々強引?)少なくとも、詩をモチーフにしよう!と考えていたり、制約が多い方が作りやすいと発言したり、真未が「砂」と酷評したありふれた発想を「普遍的だ」と言ったり、願望である真未よりは自由になりきれていないとは言えそうです。

深馬の絶望

  • 「深馬は恵まれてるね」(生い立ちが)「すごい普通!」

→真未の言葉です。親のお金で絵画教室に通って上京して美大というルートがとても恵まれたもので、そして絵の才能という面では平凡であることを、深馬は自覚しているのです。自分の価値を決めてきた「絵」は、環境によって形づくられた平凡なものだと気づいています。

  • 「自分ではない誰かに守られた自由」

→自分が享受している自由を説明した深馬のセリフ。そして深馬は完璧な自由を謳歌する真未を羨みます。上述の期待や気づきに関連して、自分の歩んできた人生が自分の意志で成し遂げられたものでは無かったかのような無力感が伝わってきました。

  • 今までは怒りの発露で絵を書いてきた

→スランプ気味である、と滝川先生に相談するシーンでの深馬自身の発言です。今までは怒りをぶつけてきたけれど、それができなくなってしまった。ここで思い出されるのが、真未の不幸を羨む深馬です。「ちゃんとした不幸」がない恵まれた自分であることを客観的に理解してしまったがために、陳腐な生い立ちであると理解してしまったがために、今までのように感情任せの創作では立ち行かなくなってしまったのではないでしょうか。こう考えると、「客観視を捨てろ」という言葉は、俯瞰で捉えては主人公になれないぞ、という含みもあるような気がしてきました。人と比べるなってやつ。

就活というものは、自分のこれまでと将来について、否が応でも考えなくてはならない機会なので、誰しもが深馬のような思考に陥いるんではないかな〜と勝手に思っています。どうしても相対評価がつきものですし、軽率に病みます。深馬は就活こそしてないけど、会話に鑑みるに、就活を意識していることは確かでしょう。

深馬の停滞

以上のような原因で、絵が描けなくなってきた深馬は、自分の価値を支えてきた「絵」という基礎が急激に揺らぐという事態に直面しています。

  • 才能の限界も感じているんじゃないかなぁ」

→原田が深馬について語ったセリフ。深馬のこの状況を端的に表していると言えると思いました。

  • 「不安も焦りもないんです」

→先生にスランプの相談をしている時の深馬のセリフ。ここまでグラグラとした状況であるにも関わらず、不安も焦りもないと言います。自分を根本から否定しかねないような、絵の創作に関するぐらつきに際して、不安も焦りもないということがあるでしょうか。深馬はこの問題から目を背けて真剣に取り合うことができていない、あるいは不安や焦りが大きすぎて押し殺してしまった、だからこそ解決のための対話の相手として、真未が誕生したのかもしれません。

 

4.衣装の色と絵の破壊

深馬の衣装の色が、黒づくめの真未とまぐわった後にベージュ(白)から黒へ、入院後は上が白下が黒に、と変わっていく演出は、結構わかりやすくアピールされていました。

色の変遷についての詳細は次の章で書いていくのですが、なぜ深馬が元々ベージュを着ていて、真未は黒だったのか。なぜ絵の破壊をしていた深馬の洋服はベージュだったのか。について考えます。

深馬がベージュで真未が黒の理由

これは深馬の価値判断に基づくのではないかと思っています。責任を持って期待に応えて絵を描くことを善(白)と考える深馬にとって、自由に思いのままに好きなように絵を描く真未は憧れであると同時に悪(黒)でありました。

最終的に真未が白い衣装で現れるのも、深馬の価値観の変化があったと考えれば説明が付きます。

絵の破壊をするのがベージュ深馬である理由

 絵を破壊しちゃうなんて破天荒なこと、黒深馬がやるんでないの?と一瞬疑問に思ってのですが、もし黒深馬がやっていたなら自分でやったことをしっかり認められるはずだと思います。評価を気にして絵を完成させるのが怖いベージュ深馬が絵を壊し、深馬の中では責任に縛られない真未がその役割を担う。深馬は真未のせいにして、真未は真未で深馬が望んだ!と話す(まあ事実ですが)。人のせいにしたいという意識も深いんだなと思いました。

 

5.クライマックスの表現

終盤の滝川先生以降、深馬の叫び→入院→語り→舞台上段に深馬・下段に真未→居酒屋→舞台上段に真未・下段に深馬…と印象的なシーンが続きます。深馬の中でどんな変化があったのかを考察することを試みました。

色の変化について

前章で、衣装の色の区分は深馬の善悪判断によって分けられていると考察しました。深馬が何を身につけるかについては、シンプルにどちらのスタンスをとるのか、と考えて良いと思います。黒深馬は、まだ真未の思考を受け入れ切れていないけど、真未のスタンスをとっている存在…みたいなイメージです。気付いてしまったのですが、黒深馬のインナーはベージュなんですね……。

深馬の叫び

原田に隠し撮りを見せられて、絵を壊したのが真未だった!(と深馬は思っている)というくだりの後、真未との掛け合いを経て深馬は雄叫びをあげます。真美との掛け合いの中で、ベージュ深馬と黒深馬のぶつかりいや矛盾を突きつけられ、これまでにない葛藤が生まれたのではないかと思っています。

上に記したように、黒深馬自身もまだ真未には染まり切れていないながら、真未のスタンスをとっているという状態です。そんな黒深馬に対して、「絵を壊したのは深馬が決めたことだ!深馬は(才能に限界を感じていて)絵をやめる理由を探していた!」とベージュ深馬の存在を示唆します。やめられるタイミングで絵を辞めなかったのは絵が好きだから(=真未的発想)と話す深馬に対しては、(これまで評価されてきたものを手放すのが)怖かったからだ(=ベージュ深馬的発想)と反論します。さらには、黒深馬が手掛けてきた(と思っている)スプレーアートは絵の完成と同等ではない、とも言いました。

真未に染まったと思っていた深馬は、まだ燻っていたベージュ深馬の片鱗を突きつけられたのです。

「私が深馬の望むことを全部叶えてあげる。そうすれば、深馬は何にだってなれるんだよ!」

再度このセリフを引用しました。絵を描くことを楽しんでいたはずなのに、真未に絵を描くのを止められてしまった。自分は真未と同化できていなかった。そして黒深馬は「ちゃんとした自由と不幸を持った真未にはわからない!」とベージュ深馬っぽい発言をします。それでも真未は、「深馬は何にだってなれる!」と強く主張する。本当だろうか?深馬はまた大きな葛藤の渦に巻き込まれてしまいました。

 

以下ちょっとまだ解釈できていないところです。

・ポリダクトリーの業績を滝川に譲ることの意味(評価を手放したようにも思えるけれどそもそも自分の功績だと思っている時点でまだ評価にすがっている。居酒屋での状態になったということかな?)

・入院中(北見の発言は明らかな虚構だけどそのシグナルがない?)

退院、舞台上段に深馬・下段に真未

 退院後、深馬は杏奈の家でのんびりと暮らしていました。深く考えることをやめ、絵を描こうと思わない。自分のあり方を模索していないので真未との対話を必要ありません。ベージュと黒のどちらであろうと考えることもなく、両者が拮抗してただ存在しているような印象を受けました。

途中で、舞台上段に深馬がすっきりとした様子でたたずみ、下段で真未が苦しんでいるようなシーンがあります。絵を楽しもうという姿勢を備え、心の向くままに未来を信じて進むような真未の考え方が深馬の中から消えようとしている(でも消えきらない)のではないか、と感じました。

*「戻ってしまう」について

退院後の穏やかな日々で、深馬はまた真未と会ったら「完全に変わってしまう、いや戻ってしまう」と言います。真未は、成長していくにつれて押し殺され、忘れられてしまった純粋無垢な深馬の一部分だったのではないかと思いました。以前は怒りという感情をのせて絵を描いていた、という発言もこの考えに合致します。

 居酒屋の後、舞台上段に深馬・下段に真未

居酒屋では、深馬が留年していたり、予備校講師で手を打とうとしたり、でもポリダクトリーは自分だと思っていたりしていることがわかります。一見自分のあるがままを受け入れたようでありながら、まだ評価を欲している。自分の心に正直にあろうとするエネルギーも感じられません。

そして深馬はポリダクトリーや絵の破壊についての真実を知りました。ちなみに、原田の様子から以前も隠し撮りを見せられていたようなので、この時やっとこの事実を受け入れられたように思います。

退院後考えることをしてこなかった自分の葛藤を身をもって思い出した深馬。そして部屋でピンクの塗りつぶしを見つけて真未も自分の中に存在していたのだとまた実感します。

真未が真っ白な格好で舞台上段に現れたのは、深馬がついに真未の価値観を善と捉えられるようになったという表現だと思いました。深馬は真未とは交わっていないけれど、自慰行為を通して一体化していきます。

 その後

杏奈に電話する深馬は、弱々しく子どものようにすがっていました。入院前の深馬が、親が倒れたことを杏奈には伝えなかった様子とは対照的です。白も黒も受け入れられたのか、白と黒が逆転しただけなのか…はまだわからないかな?と思います。もし舞台が続いたとして、深馬は何色の衣装でどんな風に振る舞うのか、気になりました。

6.そのほか

他の登場人物や未解決の部分について書くつもりでした。

ただ、既にびっくりするほど長くなってしまったので、気が向いたら他の記事で書くことにします。

深馬はいつからおかしくなっていたのか? 原田の上着の有無が虚構のサインなのではないか? クライマックスでは単色になっていた羊の絵。深馬は脳内で色をつけていて、私たちが見ていた絵はモノクロだった?(杏奈が絵を見て驚いたのもそのせい?) 部屋の壁のスプレーの塗り潰しは本当に一人で塗ることができるの? 入院中の状態はどんなもの? 

特に、原田、北見や杏奈についてほとんど触れられていないのが悲しいのですが、北見や杏奈は深馬と違って自分を見失わずに現実を生きられているからこそ、深馬の内面を中心とした考察にはあまり登場してこなかったのかも、と思っています。原田については上着の考察はして書こうとしたんですけど、若干消化不良なのと長さの都合でカットしました……。原田は発言から、深馬に通ずるところがあるキャラクターだなと思っています。

最後に、「秋に咲いた桜」についてだけ書いてみようと思います。

*秋に咲いた桜について

印象的に出てきたモチーフで、「秋に咲いた桜はもう一度咲けるのか」深馬がたびたび気にかけていたことです。真未が白い衣装で舞台上段でたたずんでいた場面でも、桜が舞っていました。そこでここでは、桜とは「純粋に楽しみながら、自由に、自分のやりたいことを追い求める心」だと考えてみようと思います。

咲いた桜は散ってしまう。季節外れの秋に咲いて散った桜は、もう一度戻ってこれるのか。

桜の狂い咲きの原因は異常気象や虫害などのストレスだそうです。平たくしてしまえば、ストレスで散ってしまったこどもの心を取り戻せるか?みたいな感じでしょうか。

深馬の場合失ってしまったものはこども心でしたが、いろんなことに当てはめられそうなモチーフだと思いました。自身が作詞を手掛けた加藤シゲアキさんのソロ曲『星の王子さま』にも同じような言い回しがあるそうですね。『染、色』で描かれているテーマはサン=テグジュペリの方の『星の王子さま』にも通じうるかも。秋の桜についてはあまりスッキリした解釈ではないけれど、解釈の幅の広い表現なんだな!と自分を慰めたいと思います。

 

7.総括

結論(再掲)

「真未」と「(ポリダクトリーになりすまそうとした)滝川先生」は深馬の深層心理の現れ(特に真未は子どものような無垢な気持ち)であり、『染、色』は彼の葛藤を中心に描いた作品である。優秀な美大生とされてきた深馬は、これまでずっと自分の価値の保証や指標であり、義務(責任)でもあった絵の創作活動へのエネルギーと自信を失いつつある。その一方で、自分の可能性も信じていたいし、責任から解放されて、純粋に絵を描きたい、という子どものような無垢な思いを抱いている。

感想

絵を描くということを、勉強やスポーツ、仕事などに置き換えれば、部分的であれ、多くの人に刺さりうる作品だと思いました。「広がっていく可能性の裏で閉じていく可能性」など、深く意味を考察せずとも刺さるセリフがたくさんあったと思います。

スプレーのシーンの映像の使い方やダンスなどの表現も、見るひと飽きさせず、大好きでした。パンフレットの表紙も素敵すぎて意味もなく温めています。

私は正門くんが好きでこの舞台を観劇しましたが、面白い舞台に出会わせてくれてありがとうの気持ちでいっぱいです。正門くん、加藤シゲアキ先生、他の出演者の方々、関係者のみなさん、ありがとうございました!

皆さんの演技はなんかもうすごいな、って気持ちですごいなとしか言えません。すごいな〜〜〜(語彙力がログアウト)

あとすごいなと思ったのは、正門くんの汗。パーカーを着て布団に包まれていた後のTシャツの模様が汗なのか模様なのか、真剣に考えてしまいました。公演中にペットボトル2本以上飲むって、相当なスピードだなとも思いました。なんだろう、真面目なブログの締めをアセトーーク!にしてしまうの、やめてもらって良いですか?

 

P.S. 感想もらえたら嬉しいです。

*1:名前を繰り返して使用し冗長になることを避けるため、ちょくちょく彼・彼女の代名詞を使います。この表記は非常に乱暴だと自覚していますが、どうかご容赦ください。

*2:例えで出しましたが、正確には誤用だとかなんとか。